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シマノ 釣具事業部 釣具商品開発一部 リールチーム リール開発設計二課 アソシエイトプロフェッサー ギヤ担当 博士(工学) 井上 徹夫 氏

投稿日時
2025/07/17 09:32
更新日時
2025/08/01 13:34

未知のギヤを切削レス、ミクロンオーダーで打ち抜く

生まれて初めて手にしたリールの巻き心地に意図せず声が漏れる。笑ってしまうほど滑らかだった。ふだん釣りをしない記者が持ったシマノの高級スピニングリール「STELLA(ステラ)」。リールは手のひらに載るほどだが200以上もの部品で構成され、ハンドルの回転をスプール(釣糸を巻く円筒部品)に伝える小さな2つのギヤも含まれる。このギヤこそ巻き心地を左右するリールの心臓部。シマノが全力で開発してきた重要な部品である。

井上徹夫氏

すべては理想の巻き心地のために

「ギヤフィーリングの追求が私の命題。それ以外は何もありません」と、シマノで32年間リールのギヤ開発に携わる井上夫氏はまっすぐ言い切る。ギヤフィーリングとはリーリングの感覚で、同社はゴロゴロ、ザラザラ、ザラゴロ、ちょいゴロ、小さいザラ……など様々な表現で区分する。小さいザラ、くらいになると素人には気にならない極めて繊細かつ微妙な感覚だが、熟達した釣り人の感性はリールの感触でその日のプランクトンの多寡がわかるという話があるほど鋭い。するとギヤのわずかな振動すら妨げになるため限りなくゼロに近づけなければならない。

ゴロゴロ、ザラザラを極限まで取り除くにはどうすれば良いか。詳しくは後述するが、同社はまず切削ではなく冷間鍛造でミクロン台の形状精度のギヤを打ち抜く技術を確立した。これが鍛造による強度とコスト性、さらに精度を兼ね備えた「HAGANEギヤ」である。井上氏も「冷間鍛造技術を突き詰めたギヤ」と評するが、とはいえ形状精度を高めるだけではなお理想のギヤフィーリングには届かなかった。なにか別のアプローチが必要ではないか。自問した井上氏の頭に浮かんだのは、「そもそも、人間の指とはなんだ?」という根本的な疑問だった。

ギヤフィーリングは言ってしまえば人間の感覚だ。人の指には4つの受容体があり、それぞれ特定の役割を果たしている。同社が注目したのは加速度センサーのような役目を持つ「パチニ小体」。パチニ小体は振幅が同じでも周波数で感じ方が異なり、200~300㌹には敏感だが1000㌹のような高い周波数の振動は感じにくい。歯車の噛み合い周波数は歯数と回転数に依存し、例えば歯数が30のギヤを毎秒1回転で回せば周波数は30㌹だ。つまり歯数を最適な数まで増やしてやれば、人の指が感じにくいよう周波数をコントロールすることが可能になるのではないか。

この観点で同社はモジュールを小型化し歯数を最適化した「マイクロモジュールギヤ」を2012年に開発。冒頭のステラにもこれが採用されている。同社はすでにかなり微妙な人の感覚と周波数の関係を定量化することに成功している。とはいえここに至るまでは平たんな道のりではなかった。

■線が見えた!

井上氏がリールのギヤ開発に携わるようになったのは32年前。「シマノ・バランス・ロック」と呼ばれるハンドルのブレを抑える機構をリールに搭載したことで、今まで隠れていたギヤの振動が社内で課題になり始めたタイミングだった。井上氏は元々ギヤの専門家ではなかったという。当時のことを「知らないことだらけで無我夢中。本を読み漁りました」と振り返る。

研究を進めると、理想のギヤフィーリングを得るには形状精度を千分台まで高めて振動を抑える必要があるとわかった。だがこれは主に2つの理由で難題だった。ひとつはシマノがリールに採用したのが、研究が遅れていた極めてマイナーなギヤだったこと。そしてシマノが冷間鍛造をコア技術とする企業であり、強度を高めるためにもそのギヤを研削を含めた完全切削レスの冷間鍛造で打ち抜く選択を取ったことだ。

リールの構造上、ハンドルとスプールは回転方向が90度違うため直交ギヤを使う必要がある。しかしハンドルよりスプールの回転数を上げるためには増速が必要で、ベベルギヤでは増速用のギヤが別に必要になりゴロゴロ感も消えなかった。とはいえウォームギヤは増速に向かず、ハイポイドギヤは噛み合い調整が難しく加工機も高額のためリール用のギヤとコストが合わない。そこで同社が選んだのが噛み合い調整が楽で量産性が良いフェースギヤ。しかしこのギヤは特性がほぼ解明されていない“未知のギヤ”だったのだ。

しかも冷間鍛造は100㌧超の力で金属を叩いて圧縮する工法で、本来は微細な造形に向く技術ではない。ただ常に低負荷に晒され魚が食いつくと大きな負荷がかかるリールのギヤには高い耐久性が求められる。鍛造は切削がズタズタに断ってしまう金属繊維の流れ(鍛流線)を活かせるため強度面では理に叶った工法だった。「シマノとしてのプライドもありました」と、井上氏は冷間鍛造へのこだわりを覗かせる。

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大きなギヤがフェースギヤ。シマノはこれを冷間鍛造、切削レスで打ち抜く

だが冷間鍛造で百分台、さらには千分台の精度をもつ小さな未知のギヤを打ち抜くのは端的に言って常識外れだった。井上氏も「相談しても『鍛造を知らないのか』『おととい来やがれ』みたいな世界でした」と振り返る。何とか必要性を説いて試作を進めるも、鍛造にはまず金型が、金型にはまず電極が…と手間がかかり理想のギヤを得られる保証もない。試作で失敗すればギヤの設計を見直し、再び電極や金型の製作をやり直す終わりの見えない日々が続く。そうして黎明期の3DCADを使ってフェースギヤとにらめっこを続ける中、同社が見つけたのが1本の線だった。

ギヤの歯面を修整するクラウニングという手法がある。歯面の一部をわずかに湾曲させ、軸が傾いても狙った箇所の歯面以外の接触を抑えてノイズを抑える技術だ。フェースギヤにもこの加工を施すわけだが、その際の指針となる特殊な線がフェースギヤの歯面に“在る”ことにある日、気が付いた。この線の精度を死守して歯面修整を施せば、軸が多少傾いても滑らかな回転が得られるという重要な線である。

「線を見つけたのは本当にたまたまで、フェースギヤが研究されていればとっくに見つかっていたでしょう」と井上氏は語る。「エベレストには皆が登るのでルートが確立されていますが、たまたま我々が近所の金剛山(奈良と大阪の県境の山)を登ったら未知のルートを見つけたみたいなものです。学会でも積極的に情報を発信し、今ではフェースギヤは様々な工業製品に使われ始めています。『誰も使わないが本当は良いギヤだと広めてくれ』と、フェースギヤに導かれたような気がしています」

こうして発見した線を千分台の精度で死守できるよう金型に工夫を施し、逆にそれ以外の箇所は必要以上の精度を求めないことで、冷間鍛造による精度の高い「HAGANEギヤ」の技術が03年に完成した。未知のギヤを冷間鍛造で高精度に打つという挑戦の成果が、今のステラの巻き心地を静かに支えている。

ステラは定期的な周期 で新たなモデルが発売され、そのつど必ず新たな歯車技術が搭載されてきた。井上氏もさらなる巻き心地の向上を可能にするギヤの開発に邁進しているが、挑戦に終わりはあるのだろうか。

「人は贅沢なもので、どんなに良い物にも慣れてしまう。今のステラも良いんですがまだ改良の余地があります。聞いた話だと人は0.1㍈まで差が感じられるようです。歯面の凹凸が0.1㍈以下になればギヤフィーリングの追求は終わるのかもしれませんが、私が生きているうちは無理かもしれません」

井上氏は続ける。「仮にそれがひと段落つけば軽量化が課題になるでしょう。お客様は軽さを求めており、我々もコンマ数㌘削ることに全力をあげています。強度は維持もしくは向上させないといけないので、これも難題ですね」。シマノの歯車はまだ進化の途上である。

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シマノの高級スピニングリール「STELLA(ステラ)」。200以上の部品で構成されハンドルの回転をスプールに伝えるフェースギヤも含まれる




自転車乗りから歯車道へ


元々、自転車好きが高じてシマノを志望したという井上氏。シマノで採用してもらいたく栃木から大阪のシマノまで一週間かけて自転車で来たという。ひょんなことから歯車に関わるようになったが、最初から歯車を面白いと思ったかと水を向けると「思わない思わない(笑)」と首を振る。「だけどだんだん、楽しくなりました」。フェースギヤの第一人者として学会でも積極的に情報を発信し、フェースギヤは様々な工業製品に使われ始めている「『本当は良いギヤだと広めてくれ』と、フェースギヤに導かれたような気がしています」と笑う。



(日本物流新聞7月25日号掲載記事より加筆)